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― シャルル・ペローの『長靴をはいた猫』にみる近代 ― 関西学院大学大学院 総合政策研究科 鎌田研究室 小山英志(博士課程前期課程1年) 西洋近代にはじまる自然・人間環境破壊の最大の原因は、自分の利益のために現実を改変しようという私たちの欲望であった。カントの「自由意志」は、彼の意図とは裏腹に、自己の欲望に隷属しビジネスチャンスをものにしようと躍起になる人々(近代市民)が自らの利益追求を正当化する際の恰好の口実に使われる。そのような時代に描かれる動物は、やはり計算高い姿で登場する。 ●近代市民の姿に重ねて読む『長靴をはいた猫』 註1 シャルル・ペローやグリム兄弟の編纂で有名な『長靴をはいた猫』は、いかにも当時の人々の価値観(願望)を体現する童話である。一見、子ども向けのよく知られたこの楽しいお話は、しかし同時に、西洋近代という当時の社会状況を的確に指し示している。立派な長靴を履くことで人間社会への連絡通路を獲得した(擬人化された)猫は、知恵を使って貧しく身分も低い自分の主人(粉屋の末息子)をサクセスストーリーに導く。そこには、まさに伝統的農村社会の家督相続制度から都市型社会へ移行しようとする(すなわち貧家の末息子であってもうまく立ち回れば社会的な成功が望み得るという)、当時の時代状況がはっきりと見て取れる。私たち人間が動物に求める姿は、文化的時代的な制約を大きく受けているのだ。 粉屋の末息子は、初めは「猫なんかもらったってしかたがない。」と嘆く。しかし、彼は当のその猫のおかげで 註2結果として何の苦労もなく貴族の地位を手にするのだ。これでは粉引き場やロバをもらった長男や次男がかえって気の毒に思える。童話の中で、彼らの運命についてはついに言及すらされない。このお話に共感を覚えた子供たちは、いまやすすんで末息子になりたがる。以前には最高の価値とされた家督の相続は、その輝きを失うのだ 註3。 十九世紀初頭、グリム兄弟の『長靴を履いた猫』は、まさに近代市民の姿そのものである。王様に獲物を献上しその代金をたっぷりもらってきた猫は、主人の前に金貨をぶちまけて言う。――どうです、作っていただいた長靴の代金には十分間に合うでしょう。あなたはいまやお金持ちです。しかし、この程度で満足してはいけません。もっとお金持ちにならなければ。 註4 これはまさに資本主義の精神だ。経済の限りない成長を夢見て投資を繰り返す、利益追求型社会の誕生である。粉屋の末息子は猫の長靴に投資したのだ。そう考えれば、遺産の猫は、リスクであると同時にチャンスでもあった。ここに近代市民のおかれた状況の二面性がある。ひとつは、土地収用で私有財産を失い、強制的に困難な都市労働生活を余儀なくされた状況、もうひとつは、農村の伝統的地縁共同体の中で粉引きを続けることによっては絶対に達し得ない、社会的成功への誘惑である。後者に惹かれた人々は、粉引き小屋よりも、むしろ積極的にリスクの高い猫を選んだだろう。これは人々が、自ら進んで安定した社会基盤の崩壊を意欲(計画)したということに他ならない。また前者では、もともと農地には帰れないのだから、都市生活の成功を祈るほかない 註5。こうして、いずれにせよ既存の社会秩序は解体に向かう。 ところで、哲学や思想もまた、童話と同様に時代を代表するものの一つである。グリム兄弟(1812)にわずかに先立つ時代、カントは、人間の意志は「自由な意志」であると述べた。この「自由な意志」は、伝統社会の固定的な身分制度に縛られない態度と考えてみてもよい。動物の常識を覆して長靴を履いた猫や、もとの身分にとらわれず貴族の仲間入りを果たした末息子がその好例である。もっとも、ここで忘れてはならないのは、カントの自由意志は、「道徳性」を重要な目的として(個人の身勝手による混乱を抑制する目的で)語られたという点である。西洋近代という時代に、道徳性を主張したカントが目指したのは、人々の無知のゆえに生ずる社会的混乱を回避することだった。 しかし残念ながら、現実は、決してカントの期待通りには進まなかった。十九世紀末ヨーロッパの悲惨な混乱状況を思い浮かべればよい。ある者は伝統社会の解体に便乗・加担して経済的利益追求に励み、ある者は農地から追いやられ貧しい労働者として生活に追われる。童話のように近代市民の願望を叶えた者はほんの一握りに過ぎず、その成功も、労働者や植民地を踏み台にするという、「道徳性」とはまるでかけ離れた手段によって支えられている現実であったに過ぎない 註6。近代市民の自己中心性にもとづく暴力性は、十九世紀から二十世紀にかけて、都市の環境悪化やアジア・アフリカ地域における植民地政策(それに続く世界大戦や民族紛争)へとエスカレートし、今なおその猛威を振るい続ける。近年の自然環境問題も、やはり近代的意志の暴力性が自然に向けられた結果にほかならない。 以上に見てきたように、『長靴を履いた猫』は、まさに伝統社会から立ち上がる近代市民の姿を描き出していた。それは、地縁共同体的な遺産よりも、むしろ社会的成功を求めてリスクを採る意欲的姿であった。それでは、近代に続く現代を生きる(近代の遺産配分に立ち会った)私たちは、近代という時代から何を相続したのだろう。 私たちは、やはり猫を相続したのだろうか。しかし、猫(近代的意志の肯定)には、二度にわたる世界大戦への反省や、今日(こそ)激化している地域紛争の惨禍が必然的についてまわる。改めて猫を選ぶことは過去百年の歴史を繰り返すにも等しい。かといって、ひとたび猫の威力(社会的成功の魅力)を知ってしまった私たちが、ここにきて粉引き場に引き返すことも容易ではない。上述のような反省から伝統的な生活(価値観)に戻るとみせかけたとしても、近代性の威力は、科学技術やコンピューターとして、そしてなによりも私たちの思考構造そのものとして存在し、世界(社会)から消えてなくなることはないからだ。こうした技術的思考構造をもって再度計画的に(粉引き場という)消費のサイクルに向かうことこそ現代大衆消費社会の本質である。近代性を無条件に肯定できず、かといって伝統社会にも戻れない私たちは、やはりカントの指摘した問題に立ち帰らざるをえない。 ところで、社会的・経済的に現実を支配できなかった大多数の人々(大衆)を待ち受ける罠は、「支配イメージの消費」としての擬似的支配体験である。こうしたイメージ操作としての私たちの消費行動は、全ての社会的存在を、単に人びとの欲求を満たすための手段にまでおとしめる危険性を持つ(消費の拡大と呼ばれる)。もし、このイメージ操作が動物に向けられれば、「(単なるステイタスシンボルや愛玩の対象としての)ペット動物」、「(アニメーションなどの)かわいらしい動物」などの安易なイメージが(残念ながら)準備されるだろう 註7。私たち現代人の願望は、近代的願望(長靴を履いた猫)をルーツにしながら、イメージとしての対象支配(支配イメージの消費)へと結実している。 註1 『長靴を履いた猫』あらすじ 貧しい粉屋が三人の息子に残した遺産は、粉引き場、馬、一匹の牡猫だけだった。猫しかもらえなかった末息子は落胆するが、それを見た猫は自分に長靴を作ってくれるよう頼む。こうして長靴を履いた猫は自分で獲った獲物を、「カラバ公爵からの贈り物」といって王様に献上し、取り入る。王様が、ある日王女をつれて散歩に出ると、猫は末息子を川で水浴びさせておき、「カラバ公爵がおぼれている、お召しものは泥棒に盗られた。」と訴える。王様が用意させた服を借りて散歩に同行する末息子はまるで公爵のようにみえた。猫はその先導を務め、行く先々(実は魔法大王の領地)で作業する農民に、「王様がお尋ねになったら、この土地はすべてカラバ公爵のものだと答えろ」と脅す。広大な領地がカラバ公爵のものだと信じ込んだ王様一行の先回りをして、猫は魔法大王の城に向かい、大王をだまし、ねずみに化けてみろと挑発して食べてしまう。王様が城に到着したとき、猫は「この城もカラバ公爵の城です。」と説明する。末息子は王女と結婚し、王様の没後、王位を継ぐ。 [本文に戻る] 註2 近代市民の生命線は、みずからの企画力と創造性、計画性である。猫はそれらすべてをおおいに発揮する。[本文に戻る] 註3 日本でも、同様の例として農村過疎と都市部の過密状況などが思い浮かべられよう。[本文に戻る] 註4 グリム兄弟『完訳グリム童話集1』岩波文庫[本文に戻る] 註5 まさにカントの言う他律的意味、またはアーレントの言う生命維持の必要において意志は肯定される。ハンナ・アーレント『人間の条件』411〜413ページなど。[本文に戻る] 註6 メルヒェンのなかでは、ことは幸福のうちに運ぶが、現実はむしろその逆でありハッピーエンドとは言い難い。『長靴を履いた猫』で猫(近代的意志)の知恵(威力)に負かされるのは「魔法大王」だが(彼は哀れ猫に食べられる)、現実社会では、十九世紀(二十、二十一世紀)の植民地(元植民地)などがその役割を務めている。今も絶えない苦難を背負っているそれらの地域に共通するのは、近代的意志の犠牲としての歴史である。[本文に戻る] 註7 こうした安易なイメージに依拠した動物の流通が、ペットの飼育放棄や遺棄などを発生させる原因の一つになっていると推測することはそれほど難しくない。[本文に戻る] |